論:尼崎で出会った「大地の子」の物語 毎日新聞記者 樋口岳大

「中国残留孤児」と呼ばれるお年寄りたちが尼崎で約20世帯、暮らしていることを知っているだろうか。

中国残留孤児は、戦前から、日本各地から旧満州(現在の中国東北部)に送り出された開拓民の子どもたちだ。敗戦時の混乱で親が死んだり、家族とはぐれたりして中国に取り残された。戦後も長らく帰国できず、多くが80年代以降、40~50歳代になって、やっと祖国の土を踏んだ。

私は以前、こうした人たちのことをほとんど知らなかった。残留孤児の半生を描いた小説「大地の子」を読んだことはある。肉親と抱き合って喜んでいる様子をテレビで見た記憶もかすかにあった。だが、孤児たちが「涙の帰国」の後、どんな人生を歩み、今どのように暮らしているかなど考えたことはなかった。

『私たち、「何じん」ですか?』 [中国残留孤児]たちはいま…

写真/宗景正 文/樋口岳大 高文研
A5判232頁(1700円)
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ギョーザと涙にふれて

実際に尼崎の残留孤児と出会ったのは3年前。孤児と市民が一緒にギョーザを作って食べる催しを取材した時だ。目の前の高齢の孤児たちは、怒鳴っているようにも聞こえる中国語を話していた。何をしゃべっているのかも分からず、私は「恐い」と思った。尻込みする私に、孤児たちは笑顔で熱々の水ギョーザを勧めてくれた。私は、通訳を介して恐る恐る「どうして中国に置き去りにされたのですか」と聴いてみた。すると、孤児たちは、つい昨日のことのように、その時の様子を涙を流しながら語ってくれた。

祖国の言葉を取り戻す

私は、それから、残留孤児の家を1軒1軒、尼崎市東園田町に住む写真家、宗景正(むねかげただし)さんと一緒に訪ねて回った。国道43号線の南、同市中在家町に住む宮島満子さん(73)は1938年、長野県から開拓団として、一家で旧満州に渡った。しかし、9歳で敗戦を迎え、家族11人のうち8人が死んだ。父は病気で動けなくなり、ソ連軍に生きたまま焼き殺された。母やきょうだいは、零下30度の難民収容所で食べるものもなく息絶えた。

宮島さんは中国人に引き取られたが、「日本人」としていじめられ、石を投げられた。ずっと祖国を夢見ていたが、帰る方法は皆目分からなかった。永住帰国できたのは85年。日本語はすっかり忘れていた。食肉工場で働いて生計を立て、60歳を過ぎてから、夜間中学の尼崎市立成良中学琴城分校と、定時制の同市立城内高校に通い、日本語を取り戻した。

日本人として生きるため

宮島さんたちは「日本人として、日本の地で、人間らしく生きる権利が奪われた」として、国に損害賠償を求めて裁判を起こした。裁判には帰国した孤児の9割にあたる約2200人が参加。神戸地裁は06年、国の責任を認め、賠償を命じた。

国は昨年から、残留孤児に生活給付金を支給するなどの支援策を始めた。だが、それだけで問題がすべて解決するわけではない。日本語の不自由な孤児たちがどうやって地域で居場所を見つけるのか。病気になった時にどうやって医師とコミュニケーションを取るのか。介護はどうするのか。子や孫の世代も就労や教育面で問題を抱えている。

そんな中、少しずつだが、地域レベルでの支援も始まっている。尼崎市では、毎週火曜の午後、中央公民館で、市民らで作る「中国『残留日本人孤児』を支援する兵庫の会」(電話078-412-2228)が孤児向けの日本語教室を開催。孤児たちが体験を語る朗読劇も企画している。

もし、残留孤児が近所に住んでいたら、話しかけてみてほしい。同じ職場や学校に、孤児の子や孫たちがいたら、温かく見守ってあげてほしい。残留孤児たちが、心から、「帰ってきてよかった」と思う日を迎えるには、地域で暮らす私たち一人一人が、心を寄せていくことが大切だ。


ひぐち・たけひろ

1978年大阪府大東市生まれ。同志社大学経済学部卒。02年4月、毎日新聞社に入社し、福井支局に配属。05年10月に阪神支局(尼崎市)に異動し、写真家・宗景正氏と知り合う。06年4月から中国残留日本人孤児の取材を宗景氏と続けている。09年4月から広島支局へ。