論:尼崎1985 毎日新聞阪神支局長 二木一夫

世相を映すスクラップブック
山口組と一和会の抗争激化、阪神タイガース優勝…1年生記者として二木さんが書いた尼崎は今も大切に保存されていた。

1985(昭和60)年秋、5カ国蔵相がドル高是正のための協調介入に合意した「プラザ合意」は、バブル景気を招きました。世間が浮つき始めたこの年、私は毎日新聞社に入り、阪神尼崎駅から徒歩8分の阪神支局で記者の一歩を踏み出しました。

生まれ育った石川県から初めてよその街に。その年の4月末、赴任のため阪神尼崎駅を降りると、もう夏日。排ガス、庄下川のヘドロ。ざらついた空気が私の五感に衝撃を与えました。「庄下川で魚を見た!」というウソか本当かわからない記事が大きく載ることもあった時代。今はヘドロが取り除かれコイが戻り、あのにおいが鼻につくことはなくなりました。

つかしん誕生 商店街冬の時代へ

職場のすぐ近くにある尼崎中央商店街や三和本通商店街には、よく買い物に行きました。当時は、どこを歩いても人、人、人……。市の歩行者通行量調査によると、85年7月28日(日)の中央4番街の通行量は2万7053人あったのですが、昨年の7月28日(土)は1万5123人。人波は半減してしまいました。

大型店の進出が原因でしょうが、85年にそのきざしがありました。プラザ合意から5日後の9月27日の「つかしん」オープンです。甲子園球場の1.5倍の広さ。西武百貨店(その後撤退)を核に、専門店、飲食店、銀行、医院、教会、公園があり、一級河川の伊丹川も流れる「街」の誕生は、オープン1週間に55万人が押し寄せ、売り上げ15億円を超える人気に。当時の記事は「地元商店は“冬の時代”」が見出しになっています。

六甲おろしに乗った「尼のおっさん」

各商店街は頭を悩ませ、その中でふんばったのは、南部の商店街。阪神タイガースの21年ぶり優勝という「神風」ならぬ「六甲おろし」に乗ったのです。

まず、尼センデパートと中央商店街、三和本通商店街が駅前の中央公園に、28型テレビ3台を用意し、9月21日からのヤクルト3連戦を放映し、客の呼び込みを図りました。

その取材で、忘れられない「尼のおっさん」と出会いました。三和本通商店街で作業服屋を営んでいた河崎靖雄さん。もう他界されましたが、その年、急きょ商店街の「販売促進部長」を名乗り、イベントを考え、広報していったのです。

セリーグ優勝決定の後、中央5番街とともに、セの球団にひっかけ、シャモジ(広島)、缶詰(大洋=現横浜)、乳酸飲料(ヤクルト)、ういろう(中日)、読売新聞(巨人)を210個(※21年ぶりにひっかけた数字です)ずつ無料で配り、日本シリーズの甲子園外野席券を販売。売上金は犯罪被害者の救援基金に寄付しました。

原点は社会貢献 商店街ができること

その後も乗馬クラブと提携し、商店街内で「一日乗馬教室」を企画。冬には、商店街の入り口を人工雪原で埋め、子どもに雪合戦などを楽しんでもらうとともに、雪の解けた後は、自転車や段ボール箱を放置させないよう植木鉢を並べるクリーン作戦を実施。

さらに翌86年の秋、「阪神V2ならず」を売りにして、熊野灘でとれたタイ、ハマチを水槽付きトラックで運び、8割引で売りさばく残念セールを。約2000人が並ぶ過熱ぶりとなり、予備抽選で当選者を決定。この時も売上金を交通遺児に寄付しています。

もうけも大事だが、社会貢献も大事。ひとくせもふたくせもある河崎さんでしたが、多くのことを学びました。

今は、TMO尼崎や中央3番街が「タイガースの地元商店街」として、「トラのおばちゃん」「日本一早い優勝マジック点灯」などのイベントに取り組んでいますが、その原点は1985年にあったといえます。たくましく生き抜く。その姿勢は変わらないでいてほしいと思うのです。


ふたぎかずお

1963年、石川県小松市生まれ。金沢大学法学部卒業。85年4月、毎日新聞社入社。阪神支局を振り出しに、大阪社会部、東京社会部、甲府支局、東京社会部、中部報道センター(名古屋市)、大阪社会部を経て、2006年10月から阪神支局長。関西~関東を回遊魚のように移動し、引っ越しは10回経験。