その時 尼崎が動いた

其の四 戦国時代 水に命をかけた男、三平伝説

供養碑は御園町2丁目、阪急電車の線路沿いにある

織田信長の時代、天正3年(1575)は田植え時期に大かんばつが発生。凶作を恐れた農民は、時の有岡城主・荒木村重に猪名川からの取水を請うも、願いは叶わなかった。絶望する農民を見かねた村の庄屋の息子、三平は猪名川堤を切って村に水を引き込み、直後に自害。のちに御園地区では三平の碑が建てられ、毎年5月17日に供養の法要が営まれている。当時のかんがい用水の配分は、井組(ゆぐみ)と呼ばれる組織で厳格に決められていたが、争いが頻発。違反する者は処刑されることもあった。

其の五 室町時代 仁義なき大物くずれ

阪神大物駅の北側、大物交番の隣に立つ石碑

室町幕府の守護大名として四国から畿内を治めていた細川氏の後継をめぐり、細川高国と細川澄元が争った。戦いは20年間に及び、京都のみならず尼崎、池田、伊丹、西宮などに戦禍は飛び火し、拡大の一途をたどる。

「大物くずれ」と呼ばれる合戦は、その最終局面。大坂の天王寺・阿倍野で開戦するも、高国勢は澄元の子・晴元の軍に大敗。特に野里川(現在の中島川)での戦いは犠牲者が5千人とも1万人とも言われる壮絶なもので、「川が死体で埋まった」との言い伝えもある。

敗走した高国は大物の紺屋に隠れたが捕えられ、廣徳寺で自刃した。阪神大物駅の近くには、その戦いを示す石碑が立てられている。

番外 ちょっと笑える、こんな珍場面も

享保の象行列(『図説尼崎の歴史』より転載)
8代将軍徳川吉宗への献上品としてベトナムからやって来た2頭の象。長崎から江戸へと向かう道中、尼崎にも立ち寄った。将軍様への「御用の象」を一目見ようと集まった村人。物音立てず、犬や猫を縛りつけ、厳しいおふれのもと、人々は象の姿をかたずを飲んで見守ったのだという。
秀吉の味噌すり(寺町の廣徳寺にある石碑)
明智光秀を追討する秀吉は、尼崎で軍勢から離れ一人になってしまう。明智勢から身を隠すため駆け込んだのが当時大物にあった廣徳寺。髪の毛を剃り落とし僧に化け、台所で味噌をするという迫真の演技で敵をやりすごしたという。『絵本太閤記』に記された逸話だが、史実として明らかではない。