その時 尼崎が動いた

田能で人々の生活がはじまった弥生時代から、街の中心に尼崎城があった江戸時代まで。天下統一した秀吉がすぐお隣にいて、京の都は目と鼻の先。こんな立地だからこそ、数々の歴史ドラマが繰り広げられている、はずである。

『摂州大物浦難風之図』豊原国周画の木版刷浮世絵
地域研究史料館蔵・『図説尼崎の歴史』上巻より転載

特選 歴史の名場面集

其の一 平安時代 義経の大物船出

木曽義仲の討伐、一の谷、屋島の戦いでは天才的な奇襲戦法により勝利をおさめた源義経。打倒平家に燃える若き指揮官は、1185年に壇の浦で隆盛きわめた一族を滅亡させる。

討伐の立役者としてその名は全国へと知られ、後白河法皇から検非違使(判官)の称が与えられる。このことが兄頼朝の怒りを買い、兄弟の溝は深まり、義経の鎌倉入りは許されなかった。

関東の武士をまとめ新たな武家社会を目指す源頼朝。しかし弟の存在は次第に脅威とり、都にいる義経に謀反の嫌疑をかけ、討つことを命じる。時の権力者に反旗をひるがえす武士はなく、義経は同年11月3日にわずかな兵とともに都を出て河尻(現在の神崎川河口)を目指した。道中、多田行綱、太田太郎頼基との激戦で多くの部下を失いながらも、大物の浦へたどり着く。

九州へ逃れるため乗り込んだ船は、猛烈な嵐に襲われる。度重なる戦、兄との確執に心痛める義経は、この時、平家の亡霊に翻弄されたといわれている。船は大物浦で転覆し、義経は小船1艘で和泉浦へと逃げ去る。希代の名将は、尼崎で最後に脚光を浴びたのだ。悲劇の名場面は、800年以上も長きにわたり語り継がれている。

浄瑠璃・歌舞伎の名作中の名作

1747年に人形浄瑠璃として上演された『義経三本桜』は絶大な人気を博した。平家滅亡のロマンと義経の悲哀を描いた名作は、その後歌舞伎化。三大名作の一つとして今も多くの人に愛されている。能の『船弁慶』がベースとなった2段目「大物の浦の段」で尼崎が舞台として登場。頼朝から逃れ船を出すシーンは大きな見せ場だ。

其の二 戦国時代 弔い誓った豊臣秀吉

『絵合太功記』 貞信画の木版刷浮世絵 尼崎市文化財収蔵庫蔵

天正10年(1582)6月3日、本能寺の変の知らせを聞いた秀吉は、姫路から軍を引きつれ東へと向かった。11日には尼崎へ到着。明智光秀との対戦に備え、尼崎城主池田信輝、高槻の高山右近、茨木の中川清秀らと落ちあい、作戦を練る。この時、池田信輝とともに、当時大物町にあった栖賢寺に入り髪を切り、主君信長の弔い合戦への決意を固めたのだった。「尼崎の軍議」と呼ばれる名場面だ。

光秀討伐までの13日間の史実はその後、脚色を加え浄瑠璃『絵本太功記』として広まった。尼崎に住む光秀の母皐月を秀吉と間違え光秀が殺害してしまう十段目「尼ヶ崎の段」は歌舞伎化され、「太十(たいじゅう)」と呼ばれる名作になった。

其の三 平安時代 神崎遊女伝説

『摂津名所図会』より「五人遊女塚由来絵巻」小野利教画
地域研究史料館蔵・『図説尼崎の歴史』上巻より転載

12世紀初頭、神崎は「天下第一の楽地」だった…。大江匡房が「遊女記」でこう記した背景には、京都と瀬戸内海を結ぶ交通の要衝として繁栄したことがある。

伝説は浄土宗の開祖、法然が神崎に立ち寄ったことに端を発している。旧来の仏教を信仰する奈良の興福寺や延暦寺から疎まれ、京都から土佐(実際は讃岐)へ流刑の途中で立ち寄ったこの地で、法然は5人の遊女と出会う。芸能に長けた娼婦として生計を立てる彼女らは、仏教の教えを受け自らの罪を懺悔し、頭髪を剃って出家。法然の念仏を授かり入水往生した。

法然は、のちに京都へ戻る際も神崎の釈迦堂に立ち寄り、遊女を供養したといわれる。元禄年間に建てられた墓碑は、伝承を静かに語り継いでいる。