中途半端と呼ばないで 意外と知らない立花を知る。

電車は各駅停車しか停まらないけど、大阪から近い便利さと手ごろなマンションやアパートが受けて新住民が増加中。歴史をふり返れば、500年続く神社や地元の寄付で駅をつくってしまう熱意だってある。

駅から始まったまち 立花駅と都市計画

1936年の立花駅北側。現在の立花商店街付近だ。小笠原家蔵、尼崎市地域研究史料館『地域史研究』掲載。

京都御所の紫宸殿(ししんでん)に伝わる「右近の橘、左近の桜」。立花の地名の由来は、平安時代の頃に開墾され、橘が植えられたことにあるとされている。のどかな田畑が広がる「村」だった立花が、「まち」に発展するきっかけは、1931年(昭和6)に東海道線京都~神戸間の電化計画発表に伴い、鉄道省に対して中間駅設置の陳情書を提出したこと。大庄・武庫村と激しい誘致合戦を繰り広げた末、33年に立花村への設置が決まり、34年7月20日に開業した。駅の用地は、立花村からの寄付によるものだった。

さらに、駅を中心にした市街地を作るべく、地元では橘土地区画整理組合を設立し18万5700坪という広大な区画整理を実施。もとがほとんど農地だったこともあって、わずか2年あまりで完成した。いま、駅から放射状に伸びる道も、その当時に作られたものなのである。

立花駅前の顔 伝説の水堂踏切

JR立花駅のホームの下を通る南北通路には、常に行き交う人の姿がある。

駅前の雰囲気は南北でずいぶん異なる。

かつては木造住宅が密集していた南側だが、2000年に高さ100mのツインビル「フェスタ立花」がオープンし、129のテナントや保健所など新しい街に変貌した。

一方、北側の立花商店街では30年近くも「立花子どもまつり」が続き古くからの雰囲気を残す。「立花三種の神器」なる立花のおみやげものを大学生と一緒に作るユニークな動きも見せている。

かつて立花には南北を分断する「開かずの踏切」があった。道意線と線路が交わる水堂踏切の遮断機が、立花住民に立ちふさがっていたのだ。「朝晩は開いている方が珍しかった」という踏切は地元の語り草にもなっている。1970年に立花駅の橋上化に続いて71年に陸橋が開通。踏切問題は解消されたが、今度は薄暗い地下道を通るはめに。駅の南北で「顔」が違うのは、そんな経緯も関係しているのかもしれない。

立花住民増えてます。最新不動産事情

真新しい潮江、コテコテすぎる阪神尼崎に比べ、ほどよく下町な立花が人気です。

立花駅の周辺の風景が大きく様変わりしている。駅の南側に「フェスタ立花」が完成して以来、分譲マンションが雨後のタケノコのように増加。特に、七松町はこの10年間で世帯数2割、人口1割の増加を記録した。影響は賃貸住宅にも広がっている。立花界隈の物件を扱うアエラハウスは、「単身者、ファミリー層ともに、市外からのお客様が増えています」と話す。いかにも便利そうな商店街の存在と、再開発による新しいまちという、新旧がバランスよく混ざったイメージがあるようだ。近隣市に比べ、保証金が安いことも魅力だという。これだけ大阪に近くて、駅近の暮らしが手に入れられる場所は、そうそうないのではないだろうか。

天井画に見る地域とまちの関係 神社の再建

鮮やかな緑と青を基調にした天井画。落ち着いた色合いに、心も静まる。

安土桃山時代から約500年にわたって続く水堂須佐男神社。古墳の上に建っていて、代々の宮司が守っている。よく知られているのが、色彩豊かな拝殿天井画「万葉の花」。万葉集に詠まれる四季の花や草実を格子の間に織り込んだ大作だ。阪神・淡路大震災で全壊した拝殿を再建する際、「被災者の鎮魂に」と、地元の工務店が縁ある日本画家に依頼し寄贈したもの。再建時には予想を上回る寄進が集まったという。宮司の上村武男さんは地域の歴史に造詣が深く、2005年には地域にまつわる地図や写真を紹介する展覧会「わがまちいまむかし展」を開き、資料集も出版したほど。地元の人々の心の拠り所である村社(むらやしろ)には、地域と育んできた温かい関係があるのだ。