尼崎の琉球芸能史

尼崎は、大阪の大正区と並ぶ関西琉球芸能の拠点。数々の公演を企画し、司会も務めた元県人会会長の宮城正雄さん(80)に、その歩みを聞いた。

16歳で沖縄を離れ、尼崎在住は62年。それでも「沖縄が抜け切らん」という宮城さん。

宮城さんは2003年、自ら関わった100を超す公演の記録集『関西沖縄芸能とのふれあい』をまとめた。それは終戦の翌年、長洲小学校の講堂で開かれた「惜別・感謝大会」から書き起こされている。本土に足止めされていた沖縄出身者に帰還許可が下りたのがこの年。故郷へ帰る者、居残る者の気持ちを込めた感動の芝居を、大阪の「大宜味小太郎一座」が演じた。

尼崎や大正では、戦前から続く古典音楽の「野村流音楽協会」に加え、琉球筝曲や民謡、舞踊などの関西支部が戦後次々と組織された。三線や唄を継承する民謡研究所は、戦後の尼崎だけで延べ20カ所を数えたという。本場からの来尼公演も多かった。

宮城さんは特に印象に残っている公演として、普久原朝喜・京子両氏の追善公演(1987年)、本土復帰20周年記念の琉球芸能大祭典(92年)を挙げる。いずれも、アルカイックホールにそうそうたる顔ぶれが集まり、大盛況だったという。