まつり 第五回 貴布禰神社のお渡り

日本人でこの世に生を受けた以上、少なくとも一度は関わるであろう「まつり」。人々が集い楽しむ場である。そこで我々の先祖伝来の究極のまちづくりの手段でもある「まつり」を探索してみよう。

陸を、川を、縦横無尽貴布禰の祭りはスケールが違う

貴布禰神社のまつりで一番の特徴といえば、「お渡り」が行われていたことである。といっても昭和15年を最後に陸・川渡御が戦争のために中断。昭和33年に復活した陸渡御も2年間しか行われなかったという、記憶に残っている氏子も確実に減ってきている神事である。

「お渡り」とは神さんが大祭にあたって、神輿に乗って氏子地域を巡行することである。辰巳太鼓が道筋を祓う役目を担い、その後、猿田彦、神楽台、そして神輿が続く。神職も乗馬して行列に参列した。そのお渡りを小さい頃に見たという氏子さんは「2階からお渡りを見下ろすことは許されへんかったで。もしそんなことしたら、後からだんじりに家をつぶされるって親から言われとったもん」と、当時のお渡りの厳格さを語られた。

江戸時代から明治・大正・昭和とにぎわいをみせたお渡り。時代とともに道筋・御旅所も変わったが、基本的には西本町から東本町へまっすぐ抜ける陸渡御が行われていた。御旅所で休憩したのちは、船だんじりを水先案内人に、太鼓や神輿を乗せた船が川渡御を行い中在家まで戻ってくるという道筋。かなりの規模だったことがその道筋を見れば分かる。ちなみに御旅所とは、神さんが巡行中に休憩される場所のことで、当社の御旅所は古くは市庭町(現在の東本町3丁目)にあった市庭戎神社、そしてその後は辰巳町(東本町1丁目)の辰巳八幡神社に定め神事が行われた。

今、同じ規模のお渡りを行うことは不可能である。その理由は神社前に国道43号線が通っていることにある。しかし、神社だけでなく色々な力をお借りできれば実現不可能でもないことが分かってきた。次号では“夢プラン”を紹介したい。


江田 政亮 えだ まさすけ
昭和44年尼崎市生まれ。関西学院大学卒業後、産経新聞社入社。平成5年の父で先代宮司死去後、第17代宮司として現在に至る。