論:変わる文化財概念と尼崎の産業遺産 尼崎市教育委員会学芸員 桃谷 和則

1990年代以降、日本では「文化財」というものの概念が大きく変容してきている。簡単に言うと近代(明治以降)の建築物や産業遺産、土木構造物、機械、製品、生活用具なども文化財として保護していこうという施策が進んだのである。

鉄の機械が文化財

リング紡績機(明治中期)

例えば、写真の機械は明治中期にイギリスから輸入されたリング精紡機(綿糸を製造する機械)というもので、現在、愛知県の博物館明治村に展示されている。同種の精紡機は尼崎最初の近代的大工場であった尼崎紡績でも多数稼動していたはずであるが、今や現存するのはこの1台だけになってしまったようで、鉄でできた見た目には美しさのかけらもないこの機械が、実は国の重要文化財に指定されているのである。一般的な「文化財イメージ」とは相当かけ離れているだろうし、もしこの機械がどこかの工場の片隅に眠っていたとしても、おそらく誰も文化財とは考えないであろう。このような近代の遺産についても、文化財として保護しようという時代がようやく始まったのである。

国の状況は以上のとおりであるが、振り返って我が尼崎ではどうか。

尼崎でも関心が

尼崎第ニ発電所(1986年)

私が学芸員として尼崎に職を得た直後の1986年、関西電力尼崎第一・第二発電所が解体撤去されるという事態が起こった。両発電所は日本最大の火力発電所として長く尼崎の工業を基底から支えてきた一方で、その煙突から吐き出す煤煙が大気汚染の原因のひとつとされた、明暗両面の歴史を有する尼崎を代表する産業遺産であった。関西電力との数度の交渉と現地調査の結果、同社のご好意によりタービン発電機の一部等の資料を尼崎市に寄贈していただいたが、結局、建物そのものを保存することはできなかった。

あれから十数年の歳月が経過した。当時に比べて国の制度的保障が整ってきたことは前述のとおりであるが、例えば、財団法人あまがさき未来協会が昨年度、尼崎市内に残る工場建築物に関する調査を実施したことや、尼崎南部再生研究室のように市民レベルで地域に残された産業遺産の活用を考えていこうとする団体が登場してきたことなど、尼崎においても近年、近代の遺産、特に産業遺産に対する関心が徐々にではあるが確実に高まってきている。当時のことを思えば、まさに隔世の感がある。

歴史繰り返さず

工業都市尼崎は城下町尼崎をことごとく破壊することにより発展した。このため尼崎城跡には堀や石垣のひとつも残らず、旧城下町にはその面影すらほとんど残っていない。私には、このことが尼崎には工業都市以前の歴史はないという間違った歴史認識を市民に与えているように思えてならない。そして尼崎が再び同じ歴史を繰り返すならば、50年後、100年後の尼崎には工業都市尼崎の足跡が何も残っていないということになってしまうのではないだろうか。工業都市尼崎の証人としての産業遺産を残すことは、現代の尼崎に暮らし働いている我々が、未来の尼崎市民のために果たすべき責務のひとつなのである。


桃谷 和則(ももたに かずのり)

1962年兵庫県生まれ 尼崎市教育委員会学芸員 神戸大学文学部卒業 専門は日本近代史