論:昔の栄光を今に蘇らせて 株式会社三菱総合研究所 海外開発事業部 服部 圭郎

工業都市の展望 イギリスのマンチェスターの工業地域の再生に学んで

その昔、工業都市はスターであった。多くの人々は煙突からもくもくと煙が出る都市に住んでいることを誇りに思っていた。それが、この煙が健康に悪いということが判明して、工業都市は逆に忌み嫌われるようになるのである。折悪しく、日本の工業は韓国、台湾などの新興国との競争で負け、円高で企業はせっせと海外に生産拠点を移し、工業都市は空洞化していった。北九州とか四日市、そしてこの尼崎がそのような都市の典型例であろう。

しかし、工業都市から産業がなくなったからといって、そこが衰退するという訳ではない。産業敗れても人は残る。そして、人がいれば、それらの都市も生き続けなくてはならない。

衰退乗り切る二つの手法は

さて、それでは内外の都市はどのようにして、この基幹産業の衰退というピンチを乗り切ったのであろうか。この手法としては、大きく二つのものが挙げられると考えられる。まず、一つは、この工業跡地を産業遺産として活用してしまう、という方法である。この典型例はアメリカのマサチューセッツ州にあるローウェルやイギリスの中西部にあるマンチェスター市であろう。そして、二つ目は、工業による繁栄の負の遺産であった公害を克服した経験を生かした環境共生型都市への脱皮である。この典型例としては、我が国の北九州市やアメリカのテネシー州のチャタヌーガ市がある。ここでは、工業都市としての繁栄時代の過去を現在にうまく活かした都市づくりをしてきたイギリスのマンチェスター市の事例を紹介する。

産業の名残りを都市遺産として

マンチェスター市 運河の再生

マンチェスター市はロンドンから北に300キロメートルほど行ったところにあるランカシャー地方の中心都市である。人口は現在、40万人程度。降水量が多い湿潤な気候、そして豊富な石炭に恵まれるという地理的な条件に加えて、産業革命を起こした数々の発明などにより、世界の工業の中心として18?19世紀に栄華を極めた。しかし、1970年代頃から始まった不況により、時代を牽引した産業は衰退の一途を辿り、マンチェスター市も失業と失意の波に呑まれる。そして、同市から産業が消えたあとも、空間としてこれらの産業の名残は残ったである。それらは、イギリスで最初の人口運河であり、倉庫であり、水道橋であった。

これらが特に集中していたキャッスルゲート地区をマンチェスター市では、1979年に歴史的重要性の高い倉庫、水道橋、運河などを次代に残すために歴史的保全地区として指定した。さらに1982年にはこの地区はイギリスで最初の都市遺産として指定され、崩壊しかけていた建物群は保存されることになったのである。

人口や歴史には尼崎と共通点が

鉄道駅を利用した科学工業博物館

そして、都心部にあった科学工業博物館が、1983年に鉄道駅跡地へと移転するなど、1980年代には、このキャッスルゲート地区で、多くの再開発プロジェクトが展開した。それらのプロジェクトは、産業遺産を活用した教育、レジャー施設を多く立地させ、この地区を文化的なゾーンへと変貌させることに成功した。また、そこで生活する人達を呼び込むために運河沿いに住宅をつくり、汚染された環境も改善させる事業も併せて展開し、一昔前には人々から忘却されていた、この都市の黄金時代のハートであったキャッスルゲート地区を、再び、マンチェスター市の中心地区としての役割を担わせることになったのである。そして、1999年には世界遺産に推薦される。

このマンチェスター市は、尼崎と人口規模や歴史に共通点が多く、同市の成功は尼崎にも励みになると考えられる。もし、次回また記事を書く機会が与えられたら、アメリカのチャタヌーガ市の取り組みを紹介したいと考える。


服部 圭郎(はっとり けいろう)

1963年東京に生まれる カリフォルニア大学バークレイ校都市計画学科 ランドスケープ学科修了 技術士(都市・地域計画)
専門は、環境配慮型都市計画、都市政策