海鳴りやまず− 阪神工業地帯の過去・現在・未来 −

現在の尼崎港 運河クルーズで撮影

1世紀の歴史に幕

150mほどの高い煙突の向こうに、きらめく海がみえる。尼崎市の臨海部にある関西電力尼崎第3発電所の屋上に立った。眼下では、神戸製鋼所の跡地を更地にするためにブルドーザーがうなりをあげている。そんな下界のけん騒をよそに、海は尼崎港を行き交う船をアクセントに、澄みわたる青空を映し出している。

「今年度いっぱいで廃止になるんです」。さきほど担当者に聞かされた言葉が頭から離れない。

尼崎で発電が始まったのは1904年。東洋一の規模で重厚長大産業を支えた時代、「成長」を最高善と信じたあまり、公害を生み出した時代…。21世紀の幕開けとともに、尼崎の火力発電所の歴史に今、ピリオドが打たれようとしている。

発電所の屋上で、大阪から神戸まで見渡した。鈍(にび)色の工場群は静まり返っている。衰退が指摘されて久しい阪神工業地帯。そこには、「産業構造の変化」という一言では語り尽くせないドラマがあった。

工都燃える

「このあたりでわが社も抜本的な対策を講じないことには、今後の飛躍的発展は望めない。2年越しの懸案である高炉建設を思い切って決断すべきだと思うのです」

特殊鋼メーカー、阪神特殊鋼の専務万俵鉄平が社長に向かって、言い放った。尼崎市の帝国製鉄尼崎製鉄所から、材料の銑鉄がなかなか納入されない。それならば、と特殊鋼業界で初めて高炉を建てようというのだ。まさに社運をかけた決断だった??。

作家山崎豊子氏の名作「華麗なる一族」では、銀行合併の野望に燃える阪神銀行頭取、万俵大介の策謀が家族との確執を通して生々しく描かれる。その舞台は神戸・阪神間。特定のモデルはないとされるが、神戸銀行(現三井住友銀行)、戦後最大の倒産劇を生んだ山陽特殊製鋼などを意識して書いたことがうかがえる。

権謀術数の限りを尽くす銀行界と対比されるのが鉄鋼業界だ。冷徹な大介と異なり、長男の鉄平は、産業振興に男のロマンを傾ける鉄鋼マンとして描かれる。そこでクローズアップされるのが高炉建設だ。

小説の背景を見よう。鉄鉱石から銑鉄を作り出す高炉。電気炉や平炉しか持たないメーカーにとって高炉建設は当時、飛躍へのステップだった。神戸の川崎重工業から分離・独立した川崎製鉄が、日銀天皇といわれた一万田尚登に「ペンペン草が生える」と批判されながらも千葉に高炉を建設したのは有名なエピソードだ。神戸製鋼所も、尼崎製鉄に経営参加する中で高炉を確保する。

そうした高炉大手を頂点に、鉄鋼業の裾野は幅広い。阪神工業地帯の中核、大阪、尼崎の両市で鉄鋼業の従事者数は、60年代中盤で6万人を超し、ピークを迎える。製造工業の全従事者に占めるウエートは大阪7.1%(67年)に比べ、尼崎市は実に22.2%(64年)。「鉄の町」で働こうと、各地から大勢の働き手が尼崎にやってきた。まさに「工都」が熱く燃えた時代だった。

公害のちまた

「工場のジャングルにキリンやゾウがいた」
絵:片寄 俊秀

尼崎・杭瀬。ここで60年代後半から80年ごろまで過ごした身には、今の情景は物悲しく映る。若い親子の姿であふれた団地周辺にはお年寄りの姿が目立ち、友達と日暮れまで遊んだ児童公園も閑散としている。「♪千余の命 つどいする…」と市立杭瀬小学校の校歌を誇らしげに歌ったものだが、いまや児童数は460人ほどになっている。あちこちに少年時代の原風景は残るものの、町全体に充満していた熱気は消えている。

あのころ?。ぜんそくの発作が起きると、胸が「ヒューヒュー」と鳴った。3歳、2歳、ゼロ歳の3児を抱えた母はしばしば深夜にかかりつけの小児科医に駆け込んだ。小学校時代も汚染状況は変わらない。光化学スモッグが出れば慌てて教室に戻り、空気清浄機なるものが設置され、庄下川を渡るときには鼻をつまんだ…。まさに尼崎は公害のちまただった。

あらしのような産業公害は、産業構造の変化と不況で緩和された。しかし、大量消費時代の企業間競争が激しい自動車公害を生んだ。そうした公害問題の変化にあわせるかのように、尼崎南部のにぎわいは失われてしまった。かつて55万人を超えていた人口も減少に歯止めがかからない。「人口減少数」は4年連続で全国ワースト2という状況なのだ。

南部をどう再生するか。さまざまなプロジェクトが打ち出されている。県は「尼崎21世紀の森構想」を打ち出し、「環境の世紀を切り開く先導的なまちづくりのモデルを発信する」とうたう。また、高性能の路面電車で南北をつなぐプランもある。ベイエリアの再生がようやく真剣に議論されるようになった。

海浜都市ふたたび

「ぜんそくのせき止めにお年寄りがよく買いにこられたものです」

尼崎市開明町にある老舗の飴店、琴城ヒノデ阿免本舗の久保勝さん(67)がしみじみと話す。

尼崎城のイメージにあわせた外観、定番の水飴も餅米百パーセントというこだわりだ。創業百有余年。水飴の味わいに加えて、久保さんの飴一筋に自分を律する姿勢に打たれる。

登録商標は「人」のようなマーク。その意味を尋ねると、琴の胴の上に立てて弦を支える「琴柱(ことじ)」だといわれる。「尼崎城の別称でしたし、琴の浦とよばれた美しい海岸線にちなんだようです」。尼崎は白砂青松の海浜都市だったのだ。

尼芋があちこちで栽培され、漁業も盛んという農漁村。そこで魔法のつえのごとく産業革命がおきたのは、東本町のユニチカ記念館をみれば分かる。日本の「近代化」「高度成長」をひきかえに、「原風景」を失ってしまった。

米国の都市学者、L・マンフォードは「歴史的な都市の復興の中にこそ、最良の共同体をつくるのに必要な刺激がある」(「都市の文化」)と述べている。長年続いた尼崎公害訴訟が昨年12月、和解となった。世間の目は尼崎の行く末を注視している。だからこそ今、環境再生の地域計画を私たちの手でつくりあげるときにきているのではないか。


神戸新聞記者 加藤 正文(かとう まさふみ)

1964年生まれ。尼崎市出身。大阪市立大学卒業。89年、神戸新聞入社。経済部、北摂総局、阪神総局を経て現在は経済部で金融、経済界、震災復興などを担当。尼崎市在住