かつての新田:東浜新田地先。潮干狩りができた/小西乙次氏撮影 1923年ごろ(大正12)(ふるさと「尼崎」のあゆみより)

「東洋のマンチェスター」と高らかに謳われ、一大工業地帯として知られた尼崎南部。しかし、その歴史をさかのぼると、白い砂浜と青々とした畑が穏やかに広がるまちであったことが分かります。遠浅の海は稚魚を育み、海にほど近い土地では17世紀から19世紀にかけて農地が拡大されていきました。当初は綿花や藍の栽培が主流でしたが、徐々に外国産のものに押され、消費地に近いという地の利を生かし、尼いもなどの商品作物が栽培されるようになりました。

今の新田:埋立地と運河は整理され、工場が建ち並ぶ

しかし昭和9年、25年に相次いで上陸した台風の被害などにより、農作物の栽培に適さなくなった農地は転売され、工場が建ち並び、作物を運んだ木造船の往来が見られた運河も、1万トン級の船舶が航行できるように整備されました。