ウリハッキョは私たちの学校でもある尼崎朝鮮初中級学校

教師と児童が丁寧に対話しながら理科の授業がすすむ

自身も朝鮮学校で学んだ金校長。この日は休みのスタッフに代わって朝から送迎バスを運転するなど多忙を極める。

朝鮮学校のことを卒業生や保護者たちは「ウリハッキョ」と呼ぶ。直訳すると「私たちの学校」という意味だということを校長の金大潤(キム・デユン)さんが教えてくれた。と、その時ふと、熱烈韓国ドラマファンから朝鮮語の「ウリ」には「私たち」を超えた深い親愛の情がこめられている、と教えてもらったことも思い出した。

一体感あふれる授業風景

1946年に開校されて来年で80周年を迎える尼崎朝鮮初中級学校。幼稚班、初級部、中級部合わせて133人の児童・生徒が学ぶ教室を、金校長に案内してもらった。

「どんな動物がイッソヨ?」。小学1年生の教室では、日本語と朝鮮語を交えながらチマチョゴリを着た教師が語りかけていた。教科書の中の動物を数えるという国語(朝鮮語)の授業だ。児童・生徒は朝鮮半島にルーツを持つ子どもたちだが、これまでの家庭での会話はほとんどが日本語。つまり入学してはじめて朝鮮語を学ぶことになるが、小学2年生からは「日本語」の科目以外はすべて朝鮮語で授業がすすむ。驚きの語学教育力である。

「他の学年もぜひ見て行ってください」と金校長に連れられて全学年の授業にお邪魔したが、突然の来訪者にもかかわらず生徒たちの集中力がまったく途切れない。手を挙げる。発言する。目を見てあいづちを打つ。教師の問いかけに生徒たちがきびきびと反応する。各学年1クラスの少人数学級は一体感に包まれていた。

日本の学校と同じ内容を

「うちの子たちの学力は高いですよ。英語の授業はすべて英語ですすめます」と金校長が案内してくれた中学1年生のクラスでは、若い男性教師が発音を丁寧に教えるのに対して、生徒たちに照れや恥じらいはなく堂々と発音が磨かれていた。これなら英会話もすぐにマスターできそうだ。

「文科省の指導要領に沿ったカリキュラムで、日本の学校で学ぶことはすべて学びます。日本語の授業では『ごんぎつね』だって読みますよ。違うのは使う言葉が朝鮮語ということと、日本の歴史と朝鮮の歴史のどちらも学ぶということ。内容が多い分を補うために土曜日も授業があります」と金校長が教えてくれた。

この日幼稚班はプールの授業へ
ハングルで書かれた理科の教科書
小学3年生の教室
中学生たちもとにかく積極的に手を挙げる

朝鮮学校への風当たり

朝鮮学校は初級(小学校)中級(中学校)高級(高校)大学校(大学)あわせて現在全国59カ所にある。その多くが戦後、植民地下で奪われた民族教育のために在日コリアンの手によって開かれた学校だ。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)からの資金援助を受けながら運営してきたことから、その政治性をあげつらい生徒に対して心ない言葉や暴力を浴びせる事件が全国各地で起きている。「最近『朝鮮学校に通っている』と言うのを避ける傾向にあるんです。コリアンスクールって呼んだり。どうして自らのルーツを学ぶ子どもたちにそんな思いをさせないといけないのか」と金校長は憤る。

「各種学校」という位置づけの同校へは、国の助成はなく県の補助金も大幅に削減、さらに少子化で運営が困難な状況だ。それでも、保護者や卒業生、地域の人たちが自らグラウンド整備や建物を改修したり、とまさにウリハッキョな手作りの学校運営が続く。運営には年間1億円がかかるという。「前任の明石朝鮮初級学校では最後の校長になってしまいました。もうあんな思いはしたくない」と金校長は休校の悔しさを振り返る。

地域の小さな声を集めて

「ヘイトの声は大きいから目立つ。私たちは朝鮮学校を応援してくれる人たちの小さな声を集めないといけない」と2022年にはクラウドファンディングでスクールバスを購入し、さらにワンコインからできる継続支援の仕組みを作り、サポートを呼びかける。

「地域から誇りに思ってもらえる学校になろう」と子どもたちとともに、地域へ開かれたウリハッキョを目指している。

学校運営や修繕費用の継続支援をクラウドファンディングサイトで呼びかけている。

戦前にも尼崎に朝鮮学校があった。

尼崎に在日コリアンが多く暮らすようになった経緯は『図説尼崎の歴史』が詳しい。1910年に日本は朝鮮を植民地とし、工業地帯だった尼崎には第1次世界大戦の好景気で労働不足になった工場へと朝鮮人が労働者としてやってきた。しかし大戦後しばらくすると不況が押し寄せ、真っ先に首切りにあった朝鮮人労働者たちが職を失うことに。彼らの受け皿となったのが武庫川改修工事と阪神国道(現在の国道2号)建設工事で、すべての労働者の3割ほどが朝鮮人だったと推定される。その際に工事現場付近の村落で暮らすようになった人たちが、親戚や知り合いを呼び寄せ朝鮮人集落が形成された。1937年に兵庫県社会課が発行した『朝鮮人の生活状況』によると、守部には2千人にのぼる朝鮮人が暮らし武庫村人口の35%を占めたが、その居住環境は劣悪で貧しい暮らしが強いられていたという。

1933年には武庫尋常高等小学校が、校舎が狭いことを理由に朝鮮人児童の入学を拒絶したことが発端となり、朝鮮人父兄の教育への強い熱意から「関西普通学堂」が設立された。1939年には県の許可を得て、学堂が武庫尋常高等小学校の分教場として、全国的にも珍しい朝鮮人だけを対象とした公立学校となった。


取材=若狭健作、立石孝裕 文=若狭健作