おせっかいでビジネスをつなぐWBPグループ 五十嵐 一さん
東難波町のビルにオフィスを構え、この春からは1階にもフロアを拡大するのだとか。
モンゴルの大地で遊牧民として育ったソニン・バヤル少年が尼崎へやってきたのは2004年4月21日。その日の記憶は今でもはっきりと覚えている。「園田のビッグボーイで食べたハンバーグが驚くほど美味しくて。今でも週1、2回は行きます」と流暢な日本語と人なつこい笑顔で振り返る彼は、来日から20年。五十嵐一(いがらしはじめ)として、自身の会社を尼崎市で年商22億円にまで成長させた。
人材派遣、人材育成、IT、日本語学校、警備、清掃、不動産など、その事業は多岐に渡るが、すべては「外国人が日本で困っていることを全部解決したい」という思いから。まずは五十嵐さんと尼崎との縁から話をはじめよう。
きっかけは尼崎の母
“モンゴル人留学生にとっての日本の母”として、本誌第22号で紹介した昭和通でガラス店を営む黒谷侑子さん。彼女らが設立にかかわった内モンゴル自治区の高校の1期生として五十嵐さんは、卒業後尼崎へとやってきた。「言葉はほとんどわからなかったけれど、見るものすべてが新鮮でした」という彼の暮らしを支えたのは、黒谷さんらのありがたい“おせっかい”だった。
連戦連敗の就活経験
2年間日本語学校に通いながら、朝は新聞配達、夜は居酒屋で働きながら学費を稼いだ。常連客からは阪神の金本に似ていると「アニキ」の愛称で親しまれ、故郷への仕送りまでしていたという。その後、関西国際大学で心理学を学んだが、リーマンショック直後の就職活動に苦戦した。「リクナビに登録しても面接に進めない。80社受けたけど全滅でした。当時はお金をかけてまで外国人を採用しようという企業はなかった」と振り返る。
ビザが切れてしまうという不安と焦りの中、卒業から半年後に人材派遣会社への就職が決まったのは2011年のこと。がむしゃらに仕事を覚えて3年が経った頃、営業所の所長として外国人雇用にかかわった。「炊飯器の工場で急な増産が決まって、夜勤のスタッフが必要になったんですがすぐには見つからない。そこで日本語学校を回って40人規模のベトナム人を一気に派遣したんです」。時間に対する感覚や文化の違いなどを心配して、はじめは外国人の派遣には消極的だった会社もこれで手応えを感じたという。
外国人の働く場所を
「もっと外国人に特化した人材派遣を」と2016年に独立。最初のオフィスは黒谷さんの営むガラス店の奥の12畳の和室だ。「熱意と思いと根拠なき自信」を胸に企業を回る一方で、かつて自分が尼崎で受けた“おせっかい”を再現するように、書類手続きや住まいや学校、仕事に困っている外国人の相談を聞くうちに、事業は自然と拡大していった。
「平等」が定着率に
企業は安くていい人材が欲しいが、働く方は給料がよくて楽な仕事がいいもの。人材派遣のマッチングでは、雇用側と働き手の条件をあわせるのが難しそうだが、何か秘訣はあるんだろうか。「平等にしてください。企業へ伝えるのはこれだけです」と五十嵐さん。外国人だからというだけで日本人より安い賃金で雇うと後で必ず不満が出て離職し、長い目で見るとコストがかかってしまうのだという。これまで5万人以上のマッチングにかかわった同社の強みは高い定着率だ。「夜中1時に岐阜の旅館に飛んで行ったこともあります」と、頼れるアニキはトラブルが起こればすぐに駆けつける。
おせっかいをつなぐ仕事
「外国人イコール安いというのは30年前の話」という。母国で高い教育を受けた外国人が働きたいと来日しているが、言葉の壁は高い。今年10月には東難波町に日本語学校を開校する五十嵐さん。「これからは人材派遣だけではなく、取引先の海外進出とグローバル化をサポートしたい。尼崎でももっとたくさんの外国人が働く環境が増えれば」と、かつて“おせっかい”を受けた尼崎の地で世界をつなぐ。
アミーゴたちのママンもいた!


取材=若狭健作、立石孝裕 文=若狭健作