戦争を語るときに私たちが考えること

「戦後70年特集」と意気込んでスタートした「南部再生」編集部。そのあまりの難しさにおよそ1年遅れの刊行となった悩みについて、各地で戦争に関する講演を多く経験されている、尼崎市立地域研究史料館の辻川敦館長に「戦争を語り継ぐ難しさ」についてお話をうかがった。

紋切り型の語りから感じること

「平和が大切だ」といった表現も、ある世代までは紋切り型ではなく、自分の骨身にしみる形で語れていたはずなんですが、世代が変わり、地域のコミュニティが薄れるにつれて形式的になっていくようです。コミュニティの力が強ければ、自分たちの街が体験した戦争のリアルな語りが、地域に暮らす人たちの間で脈々と語り継がれるものですが、かつては毎年開かれていた慰霊祭がいつのまにかなくなるなど、地域の記憶が語り継がれなくなっています。

これは日本が、戦争体験をどう反省し、社会の問題として扱うかを議論しきれなかったところに問題があると私は考えています。

どの目線で伝えればいいのか

例えば戦争を語り継ぐ立場や担い手は様々ありますが、連携が取れておらず、一つの大きな課題として取り組めていないように感じます。

私は若い頃から米軍の資料を読み解いて爆撃作戦などの軍事展開を探る研究にかかわってきました。どうして非戦闘員である国民が空襲を受けることになったのか、その経緯に歴史の事実から迫りたいと思っています。他方で平和啓発活動では戦争体験者の語りが重視されたり、遺族会は戦争で命を失った家族の足跡をたどる記録をまとめたりと、これらも戦争を語り継ぐ大切な目線だと思います。

しかし、石碑をたくさん作っても伝わらないのが日本です。戦後70年を過ぎた今になって、戦争の伝え方を議論している時点で、少し遅いのかもしれませんが…。

辻川さん自身はこれまで数多くの講演をされるなかで、心がけてきた視点や内容はあるのでしょうか。

昨年は戦後70年という節目の年でもあり、例年よりも多く6件の講演をしました。あるシニア向けの講座では、阪本勝元市長の息子、阪本宣道さん(注1)が若くして特攻隊に志願したという話をしました。私の専門である米軍の爆撃戦略や戦災の事実を淡々と講演するだけでなく、心に訴えかけるような話をするのがいいと思ったのです。ただ、伝聞の話というのはどうも内容が形式的になってしまいがちで、悩ましいものです。

「戦争体験を聞く」という体験をつなぐ

2005年に戦後60年を記念してドラマ化された『火垂るの墓』は、アニメで主人公の兄妹を引き取った叔母役を松嶋菜々子さんが演じていました。アニメでは単なるいじわるな叔母という印象のあった役柄の苦悩が描かれたいいドラマでしたよ。フィクションですが「生き残った者の苦しみ」もまた戦争の大切な事実だと思います。戦争を通じて様々な立場の人の声を記録し伝えていくことが求められているのでしょう。

戦争を語り継ぐスタンスとしてご紹介したいのは女性史研究者の人見佐知子さんの「私が直に戦争体験者から話を聞いたということは、嘘偽りなく私の体験だ」という言葉です。人見さんは、「神戸空襲を記録する会」(注2)の活動の中で、戦争を体験していない自分たち世代にできることは何か、と考え続けた結果、単に体験談を記録するだけでなく、自分の言葉で語り継ぐことが大切だと言われています。

例えば神戸空襲を記録する会のみなさんが小学校で体験を語り伝える際には、講演ではなく対話を基本とし、よりその人の言葉を引き出そうとしているんですね。

私たちは、どう伝えればいいかわからないという迷いも含めて実直に伝えることしかできないのかもしれません。戦争を語り継ぐという行為には、聴く側の主体性が非常に試されているのだなと感じています。


注1 坂本宣道さんについては『地域史研究111号・112号 寺内邦夫「人間魚雷・回天と坂本宣道君のこと」』に詳しく描かれている。特攻隊の訓練中の事故で亡くなったが、生きていたら社会を担うリーダーになっていたのではと没後も研究されている。

注2 神戸空襲を記録する会…1971年発足。神戸空襲の遺族や体験者らの市民団体。空襲犠牲者の名簿編纂作業や、特に被害の大きかった3月17日を神戸空襲の日と定め、薬仙寺で毎年慰霊祭を開催している。