1945年への道のり。

1945年8月15日、太平洋戦争が終わった。1941年の開戦以降、戦時下の尼崎はどのような状況だったのか。記録だけを追った表面的な歴史ではあるが、尼崎が「1945」へと至る道をたどってみよう。

[1936] 尼崎市は小田村を合併
[1942] 立花・大庄・武庫の3村を合併

太平洋戦争が勃発し、日本全国が刻々と戦時体制一色に染まっていく中、尼崎市は1942年に立花・大庄・武庫の3村と合併した。その6年前に尼崎市は小田村と合併し、市域を拡張していたが、さらに3村を合併し、ほぼ現在の市域の姿になった。

これは「尼崎都市計画区域」という広域行政上の都市計画プランに則ったものである。当時の市長はいわゆる「落下傘」で、官選による中央の官界出身者が務めていた。合併の動きも、そうした中央とのつながり、いわば国策の一環として進められた。当時すでに阪神工業地帯の要だった尼崎は、軍需産業にも深く関わっており、戦争遂行という国家の大目的を前提とした都市行政の中に位置づけられなければならなかったのである。

「日本一の村」と呼ばれた裕福な大庄村など、吸収合併に抵抗感を抱く人も少なくなかったと思われるが、地域の事情が考慮される状況ではもはやなかった。多くの市民が知るこの合併劇は、忍び寄る戦争の影だったとも言えるかもしれない。

[44年3月] 市役所は日曜も休みがなくなる
[44年5月] 学徒勤労動員が本格化

1944年に入ると戦時色はいよいよ濃くなり、まさに総動員となる。重化学工業都市だった尼崎は多くの労働力を必要としたが、すでに成人男性の多くは出征や徴用でおらず、人手不足に陥っていた。そこで、朝鮮半島や満州から強制連行してきた人々や京都に多く住んでいた聾唖者を呼び寄せ、労働力の確保を図った。しかし、それでもすべては賄えず、学徒勤労動員により、尼崎の中等学校以上の少年少女たち(後には高等小学校へ拡大)も軍需工場で勤労奉仕することになる。

戦況の悪化に伴い、1944年秋には市内南部の国民学校に通う子どもたち(中級・上級)が疎開対象となる。翌年4月以降は低学年も含めて国民学校の全員が疎開対象となり、親戚や縁者を頼って疎開するか、兵庫県北部の氷上郡や猪名川町に集団疎開することになった。尼崎でもついに米軍による空襲が始まったのだ。

[45年6月1日] 大阪への空襲の余波で248人が死亡
[45年7月19日] 臨海部の日本石油関西製油所などが爆撃約100人が死亡

尼崎への空襲は1945年3月から始まった。3月10日の東京大空襲以降、米軍はB29によって日本の大都市を順番に爆撃していったが、3月13日と6月1日に行われた大阪への空襲の際に尼崎もかなりの被害を受けている。特に6月1日の被害は甚大で、市内で248人の死者を数えた。

続いて6月15日の大阪・尼崎空襲では、大阪の西淀川区や尼崎の市街地が焼夷弾で襲われ、64人の犠牲者を出した。その後、7月・8月にかけても断続的に空襲被害に遭っている。開始当初は軍の関連施設が中心だった空襲も、この頃には焼夷弾によって市街地で大規模火災を起こすことを狙ったものになっていた。

一方では国家による経済やイデオロギーの面での統制が進む。尼崎市では配給による食糧統制が始まった。切符による割当制で、家族構成などによって受け取れる食糧の量が決められており、外食をするにも外食券が必要だった。

同時に、全国的に国民貯蓄が推奨される。国民に対して貯蓄を促し、それを運用して戦費に回すことが目的で、尼崎でも何度もそれを奨励する運動が起こっている。その他、献納という名の資金供出や金属回収などもしきりに行われていた。戦争は経済的・物質的な側面からも市民の生活を圧迫していった。

こうした統制を円滑に進めるシステムとして機能したのが町内会や隣保などの民間組織だった。町内会は配給時の末端組織として重要な役割を果たし、隣保ごとに防火訓練や避難訓練が行われた。また、大日本国防婦人会といった戦争協力のための団体が公的・自主的に組織され、先述の国民貯蓄や献納の奨励活動に従事した。戦争を正当化するイデオロギーが、周囲からの同調圧力にもなって街を覆っていたのであった。

戦争の記憶を読む。
今や貴重な戦争にまつわる生の声が綴られている尼崎市立地域研究史料館館長のおすすめの三冊を紹介。

『きょうちくとうの咲く街で 尼崎市民が綴る戦争体験の記録』(1995年尼崎市民が綴る戦争体験編集委員会発行)市民がつづる戦争体験という尼崎の象徴的な本。

『記憶のなかの神戸―私の育ったまちと戦争』(豊田和子)仏画家の著者が自身の体験を絵と文で表現した作品。

『戦後60年…語る、そして私は願う』(東園田町会発行)一つの町会が出版したというのが珍しく、生の声が記録された貴重な本。

火垂るの墓を歩く会

野坂昭如氏の小説『火垂るの墓』の舞台となったゆかりの地を歩きながら、戦争の歴史について学ぶイベント。「あまがさき市民まちづくり研究会」会長の正岡茂明さんが地元の人への聞き取りやアニメ版の場面考証など丁寧に取材し案内してくださる。御影と西宮の2コースあり、毎年8月上旬に開催、昨年17回を迎えた。

写真:火垂るの墓を歩く会ホームページ
http://kaeru.la.coocan.jp/hotaru/