論:アマに「地場の力」を育てよう 前大阪市長 平松邦夫

前大阪市長の平松邦夫氏は約42年、人生の3分の2を尼崎で過ごしたディープな尼崎人。お隣の行政トップを経験して、今この街に期待するものとは──

元尼崎市民の前大阪市長が語る

生家は長洲の6軒長屋。そこで16歳まで過ごしました。昭和20~30年代ですから、尼崎に一番活気と勢いがあった時代でしょうね。

東京オリンピックの頃、近くの電線工場に初めてテレビが入り、近所のみんなで見に行ったのを覚えています。中学に入る頃だったか、坪庭を改築して勉強部屋にしてもらったり。決して豊かではないけれど庶民的で活気のある、アマでは平均的な環境だったと思います。

父は大阪の中小企業に勤める会社員でしたが、母が神田市場の事務員をしていたので、僕の尼崎の原風景といえば商店街のにぎわいなんです。中学の時、小遣い稼ぎに三和商店街の洋服店でアルバイトをしました。預かった背広やズボンを、風呂敷に包んで直し屋に持って行くような仕事。それで「大貫」の豚まんやラーメン食べたりね。

友達も工場の子や商店の子、親がいわゆる「その筋の人」の子もいたりして、たくましい、バイタリティーに溢れた人間ばかりでしたね。大阪市長選挙で当選した時、事務所へ女性が2人来てくれましてね。「中学で同じクラスやったん覚えてる?」って、わざわざお祝いに。

何ものでもないアマ意識

MBS時代の1972年から26年間は、再び尼崎市民になりました。今度は武庫之荘。アマ意識は薄いですが(笑)、住みよい街でした。

市長在任時は正直、個性豊かな24区を抱える大阪市内のことに手一杯で、お隣とはいえ、府県境をまたぐ尼崎市とはお付き合いはそれほどありませんでした。ドクターが電話越しに診断してくれる「救急安心センター」や、大阪市が高い技術力を持つ水道事業での協力など、市民の暮らしや安全を守るための都市間連携を探ったりはしたのですが…。やはり大阪府と兵庫県に分かれると、市長とお会いする機会も限られてしまう。

とはいえ、尼崎市民には「兵庫県民」意識がそう強くないことは、僕も長年住んだ実感として知っています。「大阪市尼崎区」みたいな感じ(笑)。でも、大阪ではない、兵庫県とも思っていない、神戸とも阪神間とも違う…そんな「他とは違う、何ものでもない」意識こそが尼っ子のプライドや街への愛着になっていると思うんです。

街の魅力は「人」に行き着く

僕は幼い頃、阪神工業地帯の中核を自分の街が担っていることを子供心に誇りに感じました。スモッグに覆われた空気や風向きによって降り注ぐ煤、汚れた川だって工都繁栄の表れなんだ、と。当時は多くの人がそう考えていたと思います。

でも今は、高度成長がとっくに終わり、大企業に頼る街の経済発展も見込めない、工場は出て行き、都市周辺はどんどんベッドタウン化していく時代。そこで何が大事になるかと考えれば、結局「人」に行き着くんですね。

自治会など旧来の住民組織だけでなく、NPOやボランティア、若い世代の新住民も含めて、みんなが尼崎をどんな街にしたいか。行政だけが「再生」の枠組みを作ったり、押しつけたりするのではなく、市民が街の価値を見出していくことです。それはたぶん、目先の金儲けや繁栄を追うだけじゃなく、文化や歴史を見つめ直し、街の良さを掘り起こすことにつながる。

人の垣根の低さ、商店街の活気、美味しい店の多さ、町工場の技術力、多国籍な人びと。尼崎には、今もいろんな良さがある。それを活かす人のつながり、いわば「地場の力」を長い目で育てることだと思います。


ひらまつ・くにお
1948年(昭和23)生まれ。長洲幼稚園、長洲小学校、昭和中学校、県立尼崎高校卒。毎日放送のアナウンサーを経て2007年12月から大阪市長。「市民協働」を掲げて4年間務める。現在は地方自治を考えるシンクタンクの設立準備中。 ブログ「平松邦夫の思いつくまま」