「コーガイ」の同時代史 ~大気汚染とアスベスト禍~神戸新聞 論説委員兼編集委員 加藤正文

幼少期に尼崎公害の認定患者となったことを原点に、被害者の視点から公害問題を追い続ける神戸新聞の加藤正文さん。自分史と重ねて、尼崎の公害史を綴ってもらった。

自分史に刻まれた自らの原点

大気汚染とアスベスト(石綿)禍。2つの公害を背負う町に育った。自分史に刻まれたこの事実を、原点として問い直す機会が増えた。2005年に尼崎市のクボタ旧神崎工場の内外で石綿被害の多発が確認されたことがきっかけだ。それから4年半。中皮腫などによる死者は320人を超え、アジア最悪の石綿禍となっている。いま被害者を訪ねて町を歩くたびに、記憶の中の公害がよみがえる。

自転車置き場に並ぶボロボロの自転車。被害実態として撮影された記録写真

西宮の浜甲子園団地から尼崎の杭瀬団地に移り住んだのは1967(昭和42)年のことだ。3歳の私、1歳の弟、まもなく生まれた妹の3人は、喘息に苦しむようになった。ヒューヒュー、ゼイゼイと胸が鳴り、高熱が出る。小さかった妹は、発作が起こると死にそうになったらしい。

公害病認定患者の子どもを抱えることになった父は、高校教師として勤務する一方、公害反対の住民組織をつくり、署名運動、関電など発生源の企業や自治体との交渉などに打ち込むようになった。疾風怒濤の日々は、父の書いた「はじまりは団地の『公害日記』から」(2005年)に詳しい。

子ども心に「コーガイ」はなんだか楽しい響きがあった。家には記者、弁護士、学生ら大勢の来客があった。神戸で集会があると、デモ行進に出かけ、横断幕をもつ父と一緒に歩いたりした。

1970年代の熱い時代の中で、国道43号、大阪空港騒音訴訟、関西新空港問題などに父は関心を深めていた。小学生の私にはその激動はわからない。ただ町のにぎわいは印象的だ。児童数は千人を超し、市場は活気に満ちていた。

記者として立ち会った運動の現場

『はじまりは団地の「公害日記」から』をまとめ、記者発表する父・加藤恒雄氏。

神戸新聞の記者となり、阪神総局で尼崎市政を担当することになったのは、2000年のことだ。

折しも尼崎公害訴訟が前年の企業和解を経て、国と阪神高速道路公団との訴訟が大詰めに来ていた。8月に大阪高裁が和解を勧告し、異例の即日結審。12月に急転直下、和解が成立した。和解条項に大型車を阪神高速から湾岸線に移行させようとするロードプライシングなどが盛り込まれ、35年にわたる訴訟が終わった。

自分自身が元被害者。運動のパイオニアである父をもち、記者として現場に立ち会えた。実に幸運なことだったとあらためて思う。

胸を突き刺す「死の棘」の衝撃

05年6月、頭を殴られたような衝撃を受けた。クボタ旧神崎工場周辺で中皮腫患者が出ていることが分かったのだ。「クボタショック」である。髪の毛の5千分の1もの繊維が肺の奥深くに刺さり、数十年の時を経て発症する。「死の棘」が引き起こす病気は辛い。中皮腫は5年生存率が10%ほどの予後の悪い病気だ。100万人に1人なるかという特異性疾患が、尼崎に多発している。

石綿は労働災害と思われてきた。クボタ問題が「ショック」なのは住民に発症が相次いだからだ。問題発覚、社長の謝罪、救済金、国の石綿被害救済新法の施行などヤマが次々訪れた。

クボタが毒性の強い青石綿を使ったのは1957~75年。被害者から当時の様子を聞くことは、少年時代を確認する作業でもある。「青い粉塵で煙っていた」「24時間操業で窓は開けっ放し」―。いろいろな声を聞いた。

工場で使った青石綿は8万8千トン。国内工場では最多だ。クボタは道義的な責任を認め、救済金は支払ってきたが、因果関係は認めない。

全国的に石綿被害者は急増し、中皮腫の死者は年間千人を超えた。4大公害事件を上回る史上最悪の産業災害になるとされる。

公害は尼崎の抱える負の遺産だが、克服しようと闘った大勢の市民を生んだ。そうした歴史が町の懐を深くしている。そんな思いでいまも暮らしている


かとう・まさふみ

1964年西宮市生まれ。大阪市立大学商学部卒業。1989年神戸新聞入社。経済部、北摂総局、阪神総局、経済部デスクなどを経て、2007年6月から現職。尼崎市在住。