今さら聞けない素朴な疑問「公害」って何ですか?

北極のシロクマを心配する「エコブーム」のずっと前から、身近な環境問題に真剣に向かい合ってきた尼崎。「公害のまち」とよく言われるが、実はほとんど知らなった、公害の足跡を振り返る。

尼崎の公害ってどんなものだったんですか?

1960年前後から尼崎の南部を中心に、工場煤煙による大気汚染が深刻化しました。続いて、地下水くみ上げによる地盤沈下、さらに、国道や阪神高速を通る自動車の排気ガス・騒音と、高度成長期を通じてさまざまな問題が噴出します。なかでも大気汚染の健康被害は大きく、88年に公害認定患者たちが電力・鉄鋼など9社と、道路を管理する国・阪神高速道路公団を相手に裁判を起こしました。これが「尼崎公害訴訟」です。

阪神国道(国道二号)のスモッグ(昭和30年代初期)いずれも史料館所蔵
関西電力尼崎第一、第二、第三発電所(1964頃)兵庫県発行絵はがきより

なぜ尼崎でひどかったんですか?

関西電力尼崎第一発電所(1956)竹吉俊策氏撮影 尼崎市立地域研究史料館所蔵写真

尼崎が工業都市に変貌していくのは第1次世界大戦前後(1910年代)。昭和の初め(1930年代)には大規模な製鉄所や火力発電所が建ち並び、阪神工業地帯の中核を担う「鉄と電力の町」となりますが、当時から既に、大気汚染による健康被害や河川汚濁の問題はありました。それがより深刻になるのが第2次大戦後、工場や労働者がさらに集中し、交通量も増えた高度成長期のこと。尼崎の公害は工都の歴史の負の側面であり、大きく言えば日本の産業史の陰の部分ともいえます。教科書にも「公害に苦しむ町」と紹介され、現在30歳代以上の人には、その印象が強いようです。

公害って誰が決めるんですか?

正式には国の法律に基づいて決めます。1973年公布の公害健康被害補償法により、尼崎は南部を中心に市域のほぼ3分の2が大気汚染公害の指定地域になりました。気管支喘息や肺気腫などが公害によって引き起こされたとする公害病の認定は、医師や弁護士で構成する市単位の審査会が行い、尼崎では累計1万1208人が認定されました。88年の法改正で大気汚染地域指定は解除され、患者の新規認定も打ち切られましたが、今も2257人の認定患者が市内におられます。

どんな被害があったんですか?

設置してわずか4年で、腐食により金属部分がボロボロになったガスメーター。(提供・加藤恒雄氏)

工場や自動車から硫黄酸化物(SOX)や窒素酸化物(NOX)といった汚染物質が排出され、気管支喘息などの患者が増えました。たとえ病気にならなくても、屋根や洗濯物に煤がたまる、建物の腐食が激しい、など日常生活にも大きな影響がありました。ディーゼル車が排出する浮遊粒子状物質(SPM)のうち、さらに微粒な「PM2.5」は、肺の奥深くまで入り込むため、健康被害が深刻です。また患者への差別も生まれ、家庭や仕事にまで影響が及び、2次被害も深刻でした。

じゃあ工場やクルマをなくせばいいの?

大阪神戸の大動脈として、阪神高速3号神戸線と国道43号線では大型車が1日4万台以上も通過する。

工場を廃止して自動車をなくせば、たしかに環境は改善されますが、工都尼崎にとって、経済発展と市民の健康の両立は非常に悩ましい課題です。認定患者の中にも、大気汚染の源である工場で働き、生計を立てる人は多くいました。喘息は苦しいが、職を失いたくない。こうした理由で、患者であることを隠す市民も多く、複雑な感情を抱えていました。知らないうちに、被害者にも加害者にもなりうるところに、公害問題の難しさはあります。