論:野宿生活者支援の現場から 尼崎貧困問題研究会 砂脇 恵

尼崎には2008年10月現在、177人の野宿生活者(ホームレス)が確認されている(尼崎市調べ)。これは、政令指定都市を除く市町村で全国第一位、兵庫県下では神戸市を抜いて第一位の多さである。04年10月の380人をピークに4年間で半数以下にまで減少してきたようにみえるが、「移動型」(テント等をもたない人)の実態把握は難しいため、実際は177人をはるかに上回る数が潜在していると推測される。

私が代表をつとめる尼崎貧困問題研究会は、野宿生活者に対する支援とホームレス・貧困問題の研究・啓発を活動目的として06年7月に結成されたボランティア団体である。月4回の巡回相談と生活再建に向けた支援活動を展開するとともに、定例学習会の開催や『尼崎貧困問題研究』(研究誌)の発行を行っている。

働く努力や意欲はあっても

野宿生活者の支援活動をしていると、一般の市民からしばしば次のような指摘を受ける。「仕事がないというが、誰だって必死に仕事を探して働いている。ホームレスは何がなんでも働こうという意欲がないのではないか」と。では果たして、彼ら/彼女らは働く努力・意欲不足のせいでホームレス状態になっているのであろうか。ここで、事例をとりあげながら考えたい(なお、次の事例は、当事者が抱える生活課題の内容を損なわない程度に修正している)。

市村省三(仮名)、男性、54歳、未婚。軽度の知的障害あり。高校卒業後、尼崎のA工場で働くが、25歳で退職、その後土木・建築現場を転々とする。母親とは40歳で死別、父と二人暮らしになるが、折り合いが悪く44歳で実家を出る。45歳で父とも死別。飯場(住み込み)の建築仕事や日雇い仕事で生活をつなぐが、景気の悪化と持病の腰痛のため仕事もなくなり、51歳でY公園に移り野宿生活に至る。

まず、野宿に至る経緯のほとんどに、失業・不安定雇用の問題がある。日雇い労働は、雇用の不安定、労働条件の低劣性に加えて、雇用保険など社会保障に入れてもらえない場合も多い。そして、蓄えが底をつきれば、家賃のみならず当面の生活費にさえ事欠く状況になる。当面の生活をしのぐためには、日払いで給料が出る仕事に就かざるをえない。こうして〈雇用の不安定性→失業→生活をしのぐための日雇い労働→失業〉という悪循環に陥り、その行き着く先が野宿、なのである。

それでは、野宿生活者はどのように生活を維持しているのであろうか。彼ら/彼女らは働いている。ある男性は深夜3時から昼の3時までの12時間にわたってアルミ缶を集めるが、近年のアルミ単価の下落に伴って、1日300円程度にしかならない日もあるという。

人とのつながり結ぶ場を

以上のように、野宿生活者は雇用、社会保障、家族関係、住まいを失った末に、野宿に至りながらも、日々努力して生活をしのいでいる。頼ることができる「支えがない」という意味で、最も「自立」した人びとだともいえる。だが、たとえ生活がしのげたとしても、雇用や家族、住まいが人とのつながりを結ぶ場でもあることを考えるならば、その喪失は社会的孤立を意味している。

言うまでもなく人間は一人では生きられない。「助け助けられる」関係において生きている。したがって、私たちの活動の究極目標は、野宿生活者の失われた生活の基盤を取り戻すと共に「社会的つながり」を編み直すことにある。

理解からはじまる支援の輪

活動をはじめてから3年、少しずつではあるが、活動の輪は拡がりつつある。ホームレス・貧困問題に関心をもつ人たちが一人二人と会に加わり、あるいは地域の社会福祉団体や専門職、医療関係者、弁護士等とのネットワークも進んできている。ただ、このような「有志」の人間だけが集まれば、野宿生活者の社会的つながりが回復するわけではない。一人でも多くの住民のみなさんに、野宿生活者の現状や課題を理解していただけたらと思う。そして、「支援」とか堅苦しいことではなく、尼崎のそこここで、アルミ缶を集めるおじさんに「ごくろうさん」と気軽に声をかけられるような〈緩いつながり〉が拡がっていけばと考えている。


すなわき めぐみ

種智院大学人文学部社会福祉学科講師。専門は、生活保護制度、貧困問題、社会福祉学。主著に『公的扶助の基礎理論-現代の貧困と生活保護制度』(共著、ミネルヴァ書房、2009年)がある。活動に関するお問い合わせは sunawakkey@yahoo.co.jpまで。