サイハッケン 大煙突がそびえる登り窯があった。

長く住んでいても意外と知らないまちの愉しみ。「へえ~」と目からウロコの再発見!
ディープサウスの魅力をご堪能ください。

かつての登り窯の大煙突(前には当家のお稲荷さんの鳥居が写る)

いぶし銀流れる大屋根と、格式ある塀が建ち並ぶ寺町。11ヵ寺が集まる風情は、文句なしに尼崎が誇る歴史的景観である。その寺町の南に、かつては堂々たる煉瓦の大煙突を備えた登り窯を持つ窯元が今も残る。明治期から続く「琴浦窯」。4代目和田桐山氏と、5代目を継ぐべく励む息子泰明氏が暖簾を守る。

かつての登り窯は5室連房式、つまり器を焼く5つの続き部屋を持ち、全長13メートルの規模を誇った。往時には大勢の職人を抱え、当主には多種の技法を広く身につける技量が望まれたそうだ。

なぜ尼崎に窯元が。尼崎藩主に仕えた外科医の孫、和田九十郎正隆氏の陶芸好きが高じ、武庫郡大社村(現西宮市)に窯を築いた。その息子の正兄氏(初代)が明治43年に現在の寺町へと移り、白砂の美しい琴浦の地名から「琴浦窯桐山」と号した。主に茶道具一式を作り続け、終戦後の昭和天皇行幸の際には、県の文化賞を受けた。陶磁器作りは、土が命。各地から集めた土を独自にブレンドし、琴浦窯の個性を表現してきた。

現在、琴浦窯には電気窯とガス窯が据えられ、平成元年に山梨県の大泉村でレンガの一部を受け継ぎ再興した登り窯でも、年2回は窯焚きを行う。全長7メートルと小さくなったが、1度に焼成できる量は茶碗で300客というから、初代琴浦窯の大きさがうかがえよう。

金襴手(きんらんて)と呼ばれる格式高い菓子器は80年前に作られた初代の作品。
4代目和田桐山氏

息子であり5代目を目指し修業にはげむ泰明氏。

2年後には開窯100年。パリでの親子展を縁に、泰明氏は今年11月、寺町の3ヵ寺で日仏の絵画展をプロデュースした。またHPを通じて作品を見た人がイギリスから修行に来るなど、近年ぐっと海外との距離が縮まるのを実感しているという。「世界へ琴浦の作品を発信していきたい」と親子そろって語る将来に向け、琴浦から広い海へと漕ぎ出した。


翁草園 琴浦窯

東桜木町17
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