尼崎コレクションvol.03《綿市場條目(わたいちばじょうもく)》

尼崎市内に現存している逸品を専門家が徹底解説。あまりお目にかかれない貴重なお宝が歴史を物語る。

農民と商人が生んだ綿取引のルール板

[作品のみどころ] 江戸屋の綿市場に掲げられていた大型の高札。市場の規則や競り売りの方法などが細かく定められている。61.4×359.2cm/木製/江戸時代後期

江戸時代の尼崎は、売ることを目的にした綿などの商品作物をいち早く栽培したところから農業先進地域と呼ばれている。もはや年貢と自給自足のための貧しい農業の時代は終わっているのである。

綿が庶民の服の原料として広まりを見せるとともに、綿の流通も全国展開したが、流通を掌握したい幕府と一部の特権商人たちによって、買い叩きや販売の独占が行われた。農民たちの不満は、やがて摂津・河内の1,000ケ村以上の農民が共同で、販売の自由を目標に掲げる国訴という前代未聞の大訴願運動をおこすことになる。

国訴が高まりを見せる以前、文化3(1806)年に競り売りによって正路な値段を定めて、誰でもが参加できる自由取引市場を設立したのが江戸屋弥兵衛であった。江戸屋が特権商人たちの反対にあいながらも長い年月をかけて設立運動を続けてこられたのは、裏に特権商人による価格操作を介さずに手広く綿取り引きができるという、農民からの期待と後押しがあったからである。農民の不満の高まりと市場流通の閉塞感に商機を見出した商人としての江戸屋の判断は正しかったのかも知れない。

ところが、江戸屋の綿市場は場所を転々とした後、文政12(1829)年にはついに休止となる。それは農民にとって綿を市場に持ち込むよりも、つき合いのある最寄りの商人へ売りさばく方が手早く、綿市場は販売先を手狭にするむしろ厄介な存在になったからだといわれている。

綿市場の衰退とは反対に、国訴運動は大きな盛り上がりを見せてゆく。そこには商人江戸屋の思惑以上に、より高価格実現のため自由な販売先を求めて商品経済に関わってゆこうとするしたたかな農民たちの姿が窺える。


室谷公一
尼崎市教育委員会学芸員 寒さにはめっぽう弱いくせに、雪大好き、スノボー大好き。体力と腰はどこまで耐えられるのか?