論:建築家 茂庄五郎さんのこと 大阪人間科学大学教授 植松清志
2年半にわたり、神戸新聞社の加藤正文さんと共に兵庫県下55の工場を描く機会に恵まれた。生活で毎日触れるような品々から、コンクリート、ガスに至るまでさまざまな製造現場を歩き、ものづくりの楽しさを再発見しようという試みだ。
阪神電鉄尼崎発電所 尼崎が誇る煉瓦造建築の設計者の顔
煉瓦造りの美しさ
新緑の季節となりました。「近代建築の研究」と称して建物を見て回っていると、緑とレンガの美しさに気を取られることがよくあります。土を焼いて作るレンガは、環境にも人にも優しい材料で、その美しさは、外国だけでなく、わが国においても際だっています。レンガを用いた近代建築の多くは、残念ながら取り壊されてしまいましたが、最近はレストランなどへ再利用されるなど、一般の人にも近代建築の美しさが認識されてきたようです。尼崎の魅力的な近代建築には、阪神電鉄尼崎発電所やユニチカ記念館があります。双方共に明治時代後期の建物で、前者の設計者は茂庄五郎(推定)とされています。
工場建築の専門家
建築家・茂庄五郎(写真1)は、文久3年(1863)2月長崎市に生まれ、明治24年(1891)7月帝国大学工科(現東京大学工学部)建築専科を卒業。同25年尼崎紡績(株)に入社し、第2工場の設計を担当した後、呉の海軍工廠に転じ、さらに同28年大阪において建築事務所を開設します。関西では、明治20年代に紡績業を中心とした軽工業が発展し、工場の設計に建築家の専門性が求められるようになりました。茂はこのような要望に応え、尼崎紡績、天満織物、桜セメント、九州電気鉄道、阪神電気鉄道など、多数の工場を設計しています。
妻壁に類似点
ところで、阪神電鉄尼崎発電所(写真2)の設計者が茂と推定される根拠としては、近しい親類・縁者間での伝聞。現存する他の設計作品と比較して、デザインの類似点が多いことなどが考えられますが、茂家の血縁はほぼ絶えた状態ですので、前者の確認は無理です。後者では、現存する作品に旧堺セルロイド(現ダイセル化学工業)がありますが、茂はこれの実施設計のみの担当で、基本設計から携わっていません。そこで、茂の作品ですでに取り壊された旧帝国製糸八尾工場(写真3)と比較してみると、三角形の妻壁の処理などは類似しているように見えますが…。気になるところです。また茂は、明治35年に設立された関西商工学校(現関西大倉高等学校)の創立発起人・評議員に名を連ねています。同校は「実力養成」を教育方針に掲げ、設立時から授業を夜間開講として働きながら学ぶ学生に便宜を図り、優秀な人材を数多く輩出しました。
作品としての工場
茂は、大正2年(1913)3月28日に50歳で亡くなり、葬儀には1000人にもおよぶ参列者がありました。翌年には、友人らの努力によって集められた総額3100余円におよぶ寄付の中から、約2700円で四天王寺に「茂君仲南紀徳碑」が建立されています。この額は、昭和2年(1927)に建坪31坪の借家が3000円以内で仕上げられる位ですから、相当な金額であったことが分かります。この碑は、損傷がひどく、無縁塚扱いになりながらも四天王寺境内に現存しています(写真4)。茂の死が、関西における建築の職能団体である日本建築協会の設立(大正6年)以前であったため、その記録が残らず、建築家としての作品や業績については不明でした。しかし、工場設計の分野に建築家が参画、関与することによって「作品」として評価されるようになったのは、茂の大きな功績と言えます。さらに、彼が関西商工という教育畑に蒔いた種は大きく花開き、卒業生は近代大阪の都市や建築物の設計や施工に活躍したのです。
植松清志●うえまつきよし 大阪人間科学大学教授
1952年生まれ。大阪市立大学大学院生活科学研究科博士課程修了。学術博士、一級建築士。近代大阪における建築家の活動、近世大坂における蔵屋敷の建築を主な研究のテーマとする。民家や町並みなどのフィールド調査にも積極的に取り組んでいる。