まつり 第四回 貴布禰神社のまつり・下

日本人でこの世に生を受けた以上、少なくとも一度は関わるであろう「まつり」。人々が集い楽しむ場である。そこで我々の先祖伝来の究極のまちづくりの手段でもある「まつり」を探索してみよう。

江戸時代から続くだんじり。歴史を紐解いてみたのだが…

前号で少しだけ歴史を紐解いてみたいと書いたが、少しだけしか紐解けない理由はただひとつ、歴史がはっきりとしていないところにある。というのも神社に残されていた古文書が洪水や火災、そして戦災によってことごとく喪失したからである。

神社の歴史自体も他の文書に「貴布禰神社」と記載されているところから創建年代を推測しているほどなのだ。で、まつりの歴史だが、だんじりなどの練り物が出されるようになったのは、正徳4年(1714)に大阪御番所へ出された「社地替」の書類に「練物等」という表記があることから、今から約290年前と思われる。

一番古くから曳かれていたのが、中在家のだんじり。現在は中在家として1台が出されているが、往時は中在家だけで9台が出されていた。漁師町であっただけにさぞかしい荒々しい曳き方だったであろう。現在のだんじりに取り付けているちょうちんにも「東一、西三」など書かれており、9台を代表して出されている様子がわかる。

他にも北出・南出という出屋敷地区のだんじりにも歴史があるが、現在曳かれている8台のだんじりの内、残りの5台は戦後に曳かれ始めたものである。まあ、人が住んでいないとだんじりも出されないことを考えれば、中在家や東本町を中心にまつりが展開されていたこともうなずける。

また山合わせの起こりも定かではない。宮入の順番を争うために行われていたであるとか、道筋で出合っただんじりが山合わせを行ったなど様々な説があるのだ。

ということで、ほとんど歴史を紐解くことができなかった。ただ、時代とともに形は変えてきたが、貴布禰神社の氏子の皆さんが受け継いできたまつりであることは確かだ。290年続くまつり。まつりが続く限り、尼崎の南部も元気かなと思う。


江田 政亮 えだ まさすけ
昭和44年尼崎市生まれ。関西学院大学卒業後、産経新聞社入社。平成5年の父で先代宮司死去後、第17代宮司として現在に至る。